『恋人たち』
2015/日本 上映時間140分 PG12
監督・原作・脚本:橋口亮輔
製作:井田寛
上野廣幸
企画:深田誠剛
撮影:上野彰吾
音楽:明星
キャスト:篠原篤
成嶋瞳子
池田良
光石研 他
100点
”それでも、生きてかなきゃ”
テアトル新宿にて初日に鑑賞。
観た直後の熱にうなされた状態で、今年ベストだと感じ、しばらく経ってそれを確信。
生きづらさの映画である。痛みについての映画である。絶望についての映画である。
人に絶望させられる映画である。
それでもなお、人に希望を見ようとしてしまう、弱さについての映画である。
アツシ、瞳子、四ノ宮。3人はそれぞれに痛みを抱え、生きづらさに対してそれぞれの態度で向き合っています。少なくとも、向き合おうとしています。だからこそ傷つき、絶望する。
映画冒頭、アツシの亡き妻との思い出を語る独白から映画は始まります。
場所は自宅。電気は点いていなく、暗い室内。
アツシの言葉を受け止める相手は誰もいません。
瞳子も、四ノ宮もそう。
言葉を受け止めるとは、相手の痛みを、一時的にせよ受け止めてもらうことなのだと思います。
ただ、3人は誰もいない宙に向けて言葉を投げかけます。
誰も痛みを受け止めようとしない。誰もが無関心で、やっと聞いてもらえる相手に出会えたとしても、それは幻であったと知る。そしてまた傷つけられたと絶望する。
そんな中、思いがけず誰かがそばにいて、話を聞いてくれる瞬間がある。
アツシの同僚の女性は、あけっらかんとした態度で、母が一緒にテレビを見ようと言っていたと言い、あめ玉を缶コーヒーの上に置きます。
身を案じた上司は、弁当を持って自宅を訪ね、アツシの八つ当たりにも似た言葉を、受け止めます。
結局の所、アツシが抱える痛みの本質は、彼等にだって伝わらないのだと思います。
でも、言葉の通じないこの世の理不尽さの中において、彼等と触れ合うその一瞬があるからこそ、生きていける。
ただ、この映画が発する言葉は、誰もが傷ついている。だから優しさを持とう、ということではないと思います。
人に希望を見て、だから人に絶望してしまう。その弱さを肯定しているのだと思います。
決して諦念ではなく、その繰り返し。その肯定。それでいいのだと。
たまに、ふと空を見上げて、その青さに胸を打たれればそれでいいのだし、ささやかで弱く、でも確かに空の元で他者と繋がりを持てているのだと、そう気付ければそれでいいのだと。
次の瞬間にはそんなこと忘れてしまっていても、またふいに訪れる良い瞬間に出会えればそれでいいのだと思います。
何度となく引用している、是枝監督の著書の「欠如」と題された章にこんな一節がありました。
自身が、ヒーローが己の弱点を克服し、家族を守り、世界を守るような話ではなく、”等身大の人間だけが暮らす薄汚れた世界、ふと美しく見える瞬間を描きたい”という言葉に続けて、こんなことを語られています。
その為に必要なのは歯を食いしばることではなく、つい他者を求めてしまう弱さではないのか。欠点は欠如ではない。可能性なのだ。
そう考えると、世界は不完全のまま、不完全であるからこそ豊かだと、そう思えてくるはずだ。
是枝浩和著「歩くような速さで」より
他者との触れ合いに焦点を当てれば今年観た『きみはいい子』だろうし、対話に焦点を当てれば『その街の子供』だし、その断絶なら『サウダーヂ』だし。
それらの作品たち同様、観終わってからもふと劇中の人物のことを考えてしまう。
心に住み着く感覚を感じています。
今作について、自分が感じたことの半分も言葉に出来た気がしません。
まだ咀嚼中です。
この作品で感じた気持ちを、まだ映画的な構造で当てはめて語るようなことも、どこか自分を安心させてしまうようでしたくありません。
しばらくは、あの恋人たちを思って。
<あらすじ>
通り魔事件で妻を失い、橋梁点検の仕事をしながら裁判のために奔走するアツシ。そりがあわない姑や自分に関心のない夫との平凡な生活の中で、突如現れた男に心揺れ動く主婦・瞳子。親友への想いを胸に秘めた同性愛者で完璧主義のエリート弁護士・四ノ宮。3人はもがき苦しみながらも、人とのつながりを通し、かけがえのないものに気付いていく。
映画.comより
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