2015年7月11日土曜日

海街diary


海街diary
2015/日本 上映時間126分
監督・脚本・編集:是枝裕和
音楽:菅野よう子
撮影:瀧本幹也
原作:吉田秋生「海街diary」

キャスト:綾瀬はるか
長澤まさみ
夏帆
広瀬すず 他


100点





”日常こそが喪の途上”




封切り初日に既に2回鑑賞。
それからあれよあれよと数回観て、先日鎌倉に行った次の日にも観て(本当はその日に観たかった)、計5回鑑賞しています。

普段滅多に漫画は読まないのですが、父に勧められたのかどうだったか経緯はよく覚えていないのです、が今作はなぜか気に入っていた原作ファン。

そんな「海街diary」を是枝監督が撮るとのアナウンスを聞いた時、喜び以外の感情はありませんでした。その喜びは、監督の映画化への意気込みを語る短い文章で確信に変わり、そして鑑賞。

『海街diary』、大傑作でした。

「海街diary」成功の鍵は、あの四姉妹が魅力的に描かれていること。
それを易々と超えて、さらにその奥へと踏み込むこの映画の懐の深さと力強さに溜め息。





タイトルの「diary」が示す通り、「海街diary」はすずが鎌倉に来てからの四姉妹それぞれの日常が日記のように描かれた作品。
今作は、そんな散文的な語り口は残しつつ、すずが鎌倉に来てからの一年間のお話に再構成。それでいて、映画的な構成の芯がしっかり貫かれた足腰の強い映画。

その骨格と言うのが、是枝作品の多くに共通してある”死”に対しての考え。
もっと言うと、”喪に服すこと”への思いであると私は受け取りました。

是枝監督の著書、「歩くような速さで」において、正にこのテーマについて言及されている文章があるので、少し引用させていただきます。
文章は、精神科医の野田正彰さんが日航機ジャンボ墜落事故等の遺族の心のケアについて書かれた「喪の途上」という著作での、「人は喪の途上においても創造的ありうる」という記述について言及し、この言葉が響いたのは、是枝監督自身がドキュメンタリー製作で訪れたとある小学校で行った、一頭の仔牛をクラスで育てる総合学習でのある出来事がきっかけであると述べます。
その出来事というのが、母牛が予定日より一ヶ月早い早産をしてしまい、発見されたころには仔牛は既に冷たくなっていたということ。たとえ死産しても、母牛の乳は絞ってやらねばならない。給食で絞った乳を温めて飲んだ生徒達。「喪」の途上で書いた生徒達の詩や作文にはそれまでとは明らかな変化があったそうです。
そして、こんな文章でその章は括られています。


気持ちは良いが悲しいという、悲しいけれど牛乳は美味いという、この複雑な感情を手にしたことを成長と呼ばずして何と呼ぼう。
僕が「死」そのものではなくこの「喪」に、その後の創作を通してこだわり、魅入られた出発点は間違いなくここにあった。
是枝裕和「歩くような速さで」より引用



引用が長くなりすぎてしまった。
この「喪」に対する考えは、実際に監督の作品に色濃く出ています。
長編映画一作目の『幻の光』は正にこの喪の作業(グリーフワーク)がテーマとなる喪失と再生の物語であるし、その次作『ワンダフルライフ』はファンタジーではあっても、過去の思い出をもって自らの死を受け入れる男の物語。
『歩いても 歩いても』は内容は元より、直前に母を亡くした監督自身のグリーフワークの側面もあるとも言えるでしょう。






話を『海街diary』に戻します。
今作は、劇中で三度も喪服が登場する少し変わった映画。
そこからも分かる通り、映画全体に死が漂います。

映画は姉妹の父の死から始まります。
そこから姉妹の喪失の物語が描かれるのかと思いきや、彼女達は普段通り、あっけらかんとして生活をします。悲しんでいる素振りはなし。
映画は彼女達の日常を、前述の通り日記的に、淡々と描写します。
しかし、彼女達にはそれぞれ抱えているものがあることが、その日々の描写の機微によって次第に明らかになります。この語り口の見事さはもう感嘆するしかない。

例えば、佳乃が加瀬亮演じる上司と電車に乗っている場面。なぜ都銀から地方に出て来たのかと問う佳乃に、彼は「自分の居場所がここではないと気付いてしまった」と答え、佳乃は煮え切らない表情をします。
スポーツショップにて、登山に誘われている店長を寂しそうに見つめる千佳、その一瞬のショット。
つまり、自らの不倫で自分の気持ちの矛盾に悩む幸や、自分の不確かな居場所に悩むすず以外にも、それぞれに父に対する何かを抱えていることが、細かな描写によって明らかになる。佳乃はそう答えられた時、頭の中には自分達の元を去っていった父が浮かんでいたはずだし、千佳の店長を見つめる眼差しには、また愛する人が遠くに行ってしまうのではという心配が含まれているはず。

彼女達は日常を淡々と生きます。
でも、その心の中では、それぞれに葛藤を抱えていて、悩み、苦しんでいる。
でも、今日も何かを食べて、普段の生活を生きる。
表面的には穏やかなように見えても、薄皮一枚むけば途端にスリリングなドラマが顔を出す。正に「喪」の作業を、彼女達は普段の日常の中で行っている。
それを、一切の感情吐露の台詞ではなく、表向きにはそうとは聞こえないような台詞や仕草でもって、感情を語る。しかも、その台詞や仕草が後々の展開と呼応していたりもする。もう感嘆しきり。あっぱれ。拍手。





幸とすずが、二人で幸のお気に入りの場所に行くシーン。
お互い同じ境遇だからこそ理解しあえる痛みを分かち合い、今まで言えなかったすずの本音を初めて幸が聞き、お互いを理解し合う場面。

そしてラストの浜辺でのワンカット。
それぞれ「最後に何を思い出すか」と、『ワンダフルライフ』のモチーフのような会話をしたあと、すずが画面からフレームアウト。
幸を真ん中にして、三姉妹が並び、画面外のすずを見つめ、幸はこう言います。
「お父さん、ほんとダメだったけど、やさしい人だったのかもね」
「だって、こんな妹を残してくれたから」

この台詞と画面の構図は、序盤の火葬の煙を眺めるシーンと呼応したもの。
その時の幸の台詞が、「やさしくてダメな人だったのよ」

台詞を反転させ、ラストのクライマックスでは、火葬の煙が空に溶けていくショットと、画面外の海とすずとで呼応させる。
もう本当にお見事と言う他ありません。

そして、四人は画面の奥の浜辺に向かって歩いていき、映画は終わります。
中盤での四人が浜辺を歩くシーンでは、カメラは四人がこちらに向かってくる姿を捉えます。
それがラストでは四人のバックショットに変わり、砂浜には足跡がどこまでも続いていきます。彼女達の生活は、これからも続いていくのです。

もう言葉はありません。

個人的に是枝作品史上でも屈指の名シーンであることは間違いないです。
本当にこのラストシーンは素晴らしい。






全編に漂う死の匂いが、逆説的に生を肯定し、普段の日常を息づかせる。鎌倉の四季の移ろいがそれに花を添えます。
例を挙げ出すと枚挙にいとまがないので、分かりやすいところを挙げるならば、すずのサッカーでの初試合のシーン。すずの身体が躍動し、シュートを決め皆で喜びを爆発させる、正に今作で生を感じさせるシーンの直後に、幸がターミナルケア病棟への打診をされている場面が来る。この生と死を緩急が作品の随所に見られます。

生を体現するすずに出会うことで、幸の魂が次第に解放されていくこの関係は、映画での再構成でより明確なものとなっています。お見事。

鎌倉の街の四季の移ろいも生を感じさせる重要な要素。
ただ美しいだけではなく、生きているものとして街を描く。
うん、お見事。



参考資料たち



語り尽くせた気がしません。
あの桜トンネル、山形と鎌倉を繋ぐ景色、百日紅、釣りが好きだったと聞いた時の千佳の表情、すずの顔に映る花火の光り、もうどれも素晴らしい。
というよりも、全シーン、全カットに意味があり、どこかのシーンと呼応している。
本当に末恐ろしいです。

あと何回観に行けるだろうか。



<あらすじ>
鎌倉に暮らす長女・幸、次女・佳乃、三女・千佳の香田家3姉妹のもとに、15年前に家を出ていった父の訃報が届く。葬儀に出席するため山形へ赴いた3人は、そこで異母妹となる14歳の少女すずと対面。父が亡くなり身寄りのいなくなってしまったすずだが、葬儀の場でも毅然と立ち振る舞い、そんな彼女の姿を見た幸は、すずに鎌倉で一緒に暮らそうと提案する。その申し出を受けたすずは、香田家の四女として、鎌倉で新たな生活を始める。
映画.comより


0 件のコメント:

コメントを投稿

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...